top of page

All Posts

「コンピューターサイエンスに進めば、将来は安泰だよ」


そんな言葉に背中を押されて、技術職を目指した学生たちがいた。

ただ真面目に、毎日コードを書き、勉強を続けた。

でも今、彼らの“未来”は静かに崩れている。


2024年、米ニューヨーク連銀(FRB)の最新データによって、衝撃的な事実が明らかになりました。


「Tech系新卒の就職率が“全学部中ワースト10入り”。」


信じがたい数字です。

AI全盛期のいま、まさにその技術を担ってきた学生たちが、真っ先に職を失っているという現実。


「これはもう、AIに仕事を奪われたということなのか?」


そんな疑念が浮かぶのも当然です。


実際、日本でもDeNAが「AIにオールイン」を宣言し、Salesforceはエンジニア採用をゼロに。

静かに、でも確実に、“変化の波”は来ています。



computer programming


「AIはどこへ向かうのか?」

そんな問いに真正面から答えようとしたレポートが、4月に発表されました。

元OpenAIの研究者らが執筆した「AI 2027」という報告書です。


執筆者には以下のような面々が名を連ねます:

• Daniel Kokotajlo(AI Alignment 研究者)

• Scott Alexander(精神科医・評論家)

• Thomas Larsen、Eli Lifland、Romeo Dean(AI研究・政策系)


このレポートは技術革新の年表にとどまらず、

• どの分野からAIが置き換えるか

• 社会インフラはどうなるか

• 国際競争と規制はどう変化するか


といった、“AIによる地殻変動”を描き出しています。


英語論文のため、日本語にAI翻訳+視覚的に整理しました:

読んでいると、これはもはや未来予想図というより、タイムラインです。


「じゃあ、自分はどこで生きるのか?」


その問いを、他人事ではなく“目の前の自分事”として引き受けざるを得ない。そんな内容でした。

AIの進化は、仕事を奪うかもしれない。

でも、同時に——

「人間にしかできないこと」を優先できる唯一のツールかもしれません。


これは恐怖のレポートではなく、

「あなたの選択肢を広げるための、地図」かもしれません。


未来を悲観するのではなく、

いまこそ、読み解いてほしい報告書です。



 

ree

SNSで「上手い」と評価されている写真。

でも、その評価に少しだけ、引っかかるような時がある。

それが、誰かの模倣をしただけの写真であった時。


“見たことのある”構図、“どこかで見た”色味、“よくある”シーン、粒子。

そして、なにより

―「誰かが既に通った道の上を、なぞっただけ」のように見える写真。


もちろん、模倣は学ぶうえでとても有効だ。

僕だってスタジオマン時代、撮影後にポラをかき集めて、セットをバラす前にライティングを記録し、先輩の技術をなぞりながら学んできた。

模倣は、技術を体に染み込ませる最良の方法だった。


でも、それをそのまま「作品」や「商売」にするのは、また話が違う。


法に触れていなければ何をしてもいい、という考えは、少し乱暴すぎると思う。

そこに「リスペクトが感じられない」としたら、それはもう創作ではない。

ただのコピーだ。


SNSには、“どこかで見たような”写真が溢れている。

きれいな夕日、並木道、逆光、砂浜、長いベール。 もはや「テンプレ」として誰もが選べるようになった景色や技法がある。

それ自体を否定したいわけじゃない。

でも、そうした模倣の多くが「元ネタを知らない人」からだけ評価されて、「知ってる人」から見たら、ただの焼き直しに映ってしまうこともある。

しかも多くは、表面的なコピーにとどまっている。


その差を生んでいるのは、きっと“何を真似たか”ではなく、“どこまで感じたか”だと思う。


模倣の対象が、技術や機材やロケーションだけで終わっているのか。

それとも、その奥にある“意図”や“世界観”、そして“感情”まで読み取ろうとしたのか。


「すごいね」と言われるのは簡単だ。

でも、「なぜだか心が動いた」と言ってもらえるには、

誰かのあとをなぞるだけでは、きっと足りない。


模倣のその先に、自分自身のまなざしや持ち味、技術を持ち込んで、

まだ誰も見たことのない写真や価値に出会いにいけたとき、

その一枚は“自分の作品”になる。

上手い写真、というより、自分の写真。

そんな一枚を、目指して撮っていきたい。

 

写真って、何でしょう。 「被写体を写したもの」と答える人が多いかもしれません。

-写真とは「誰かのまなざし」を写したもの- そう考えたこと、ありますか? SNSで誰でも写真を発信できる私たちは、いつの間にか「撮ること」に夢中で、「何を見ているか」を忘れてしまっているのかもしれません。

── ちょっと古臭く感じてしまうかもしれませんが、戦後の2人の写真家の対照的な生き方から、「写真に必要な視点」について考えてみます。


【土門拳】“真実”を貫いた写真家──絶対スナップの哲学


土門拳(どもんけん)は「絶対非演出の絶対スナップ」を掲げた写真家です。


演出を排除し、目の前の現実をそのまま切り取る。

彼にとって、写真を“飾る”ことは「真実」への裏切りでした。


戦後の瓦礫

飢えた子ども

無言の仏像


現実の痛みも悲しみも、彼は真正面から見つめたのです。

筑豊炭鉱の子どもたちの写真には、裸足で、鼻を垂らし、こちらを見据える鋭い眼差しが写っていました。

音も声もないはずの写真なのに、その視線は、まるで“無言の主張”のように心に響きます。

彼にとって写真は「真実」であることが全て。 「写真家は事実を語る証人であれ」という哲学でした。


ree

ree

【植田正治】“詩”を紡いだ写真家──演出の中に美しさを


一方で、植田正治(うえだしょうじ)はまるで反対の道を歩みます。

彼の舞台は鳥取砂丘。

静かな砂と空の中に、家族やマネキンを配置し、まるで演劇のように撮影しました。


「現実」に「もうひとつのリアル」を重ねる。

彼の“演出”は、ただの作り物ではなく「美しさ」を紡ぐための詩。

構成された写真だからこそ生まれる不思議な空気感。

「現実」と「虚構」の境目に、美しさの可能性を見出していたのです。


ree



ree


あなたの写真に「視点」はある?

今の私たちはどうでしょう。「いいねが欲しい」「バズりたい」──そんな気持ちでシャッターを切っていないでしょうか。

気づけば・誰かの構図・誰かの光・誰かのポーズを真似している。

でも、それは「あなたのまなざし」でしょうか?

写真は、ただ“上手い”だけでは心に残らない。「誰の目で世界を見たか」が、写真の核です。




植田正治が撮影した土門拳
植田正治が撮影した土門拳


土門拳も、植田正治も、思想も手法も全く違うアプローチで「自分の目」で世界を見ていました。



撮影する一枚に「責任」を持てるように。

僕も、こうありたい。

土門拳のように、現実に真正面から向き合う強さを持ちたい。

植田正治のように、現実に詩を重ねる自由を忘れたくない。


写真を撮ることは、「自分は何を美しいと感じるのか」に責任を持つこと。

それができたなら、その一枚は、きっと“僕の眼差し”になるはず。

🌿


 

©2025 Sam Momota by Momography

このWebサイトはMomography(モモグラフィー)の公式ページです。

bottom of page