写真は「誰かのまなざし」──あなたの写真に“視点”はある?
- Sam Momota
- 5月7日
- 読了時間: 3分
写真って、何でしょう。 「被写体を写したもの」と答える人が多いかもしれません。
-写真とは「誰かのまなざし」を写したもの- そう考えたこと、ありますか? SNSで誰でも写真を発信できる私たちは、いつの間にか「撮ること」に夢中で、「何を見ているか」を忘れてしまっているのかもしれません。
── ちょっと古臭く感じてしまうかもしれませんが、戦後の2人の写真家の対照的な生き方から、「写真に必要な視点」について考えてみます。
【土門拳】“真実”を貫いた写真家──絶対スナップの哲学
土門拳(どもんけん)は「絶対非演出の絶対スナップ」を掲げた写真家です。
演出を排除し、目の前の現実をそのまま切り取る。
彼にとって、写真を“飾る”ことは「真実」への裏切りでした。
戦後の瓦礫
飢えた子ども
無言の仏像
現実の痛みも悲しみも、彼は真正面から見つめたのです。
筑豊炭鉱の子どもたちの写真には、裸足で、鼻を垂らし、こちらを見据える鋭い眼差しが写っていました。
音も声もないはずの写真なのに、その視線は、まるで“無言の主張”のように心に響きます。
彼にとって写真は「真実」であることが全て。 「写真家は事実を語る証人であれ」という哲学でした。


【植田正治】“詩”を紡いだ写真家──演出の中に美しさを
一方で、植田正治(うえだしょうじ)はまるで反対の道を歩みます。
彼の舞台は鳥取砂丘。
静かな砂と空の中に、家族やマネキンを配置し、まるで演劇のように撮影しました。
「現実」に「もうひとつのリアル」を重ねる。
彼の“演出”は、ただの作り物ではなく「美しさ」を紡ぐための詩。
構成された写真だからこそ生まれる不思議な空気感。
「現実」と「虚構」の境目に、美しさの可能性を見出していたのです。


あなたの写真に「視点」はある?
今の私たちはどうでしょう。「いいねが欲しい」「バズりたい」──そんな気持ちでシャッターを切っていないでしょうか。
気づけば・誰かの構図・誰かの光・誰かのポーズを真似している。
でも、それは「あなたのまなざし」でしょうか?
写真は、ただ“上手い”だけでは心に残らない。「誰の目で世界を見たか」が、写真の核です。

土門拳も、植田正治も、思想も手法も全く違うアプローチで「自分の目」で世界を見ていました。
撮影する一枚に「責任」を持てるように。
僕も、こうありたい。
土門拳のように、現実に真正面から向き合う強さを持ちたい。
植田正治のように、現実に詩を重ねる自由を忘れたくない。
写真を撮ることは、「自分は何を美しいと感じるのか」に責任を持つこと。
それができたなら、その一枚は、きっと“僕の眼差し”になるはず。
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