SNS上の写真に、心がざわつく時がある
- Sam Momota
- 5月11日
- 読了時間: 2分

SNSで「上手い」と評価されている写真。
でも、その評価に少しだけ、引っかかるような時がある。
それが、誰かの模倣をしただけの写真であった時。
“見たことのある”構図、“どこかで見た”色味、“よくある”シーン、粒子。
そして、なにより
―「誰かが既に通った道の上を、なぞっただけ」のように見える写真。
もちろん、模倣は学ぶうえでとても有効だ。
僕だってスタジオマン時代、撮影後にポラをかき集めて、セットをバラす前にライティングを記録し、先輩の技術をなぞりながら学んできた。
模倣は、技術を体に染み込ませる最良の方法だった。
でも、それをそのまま「作品」や「商売」にするのは、また話が違う。
法に触れていなければ何をしてもいい、という考えは、少し乱暴すぎると思う。
そこに「リスペクトが感じられない」としたら、それはもう創作ではない。
ただのコピーだ。
SNSには、“どこかで見たような”写真が溢れている。
きれいな夕日、並木道、逆光、砂浜、長いベール。 もはや「テンプレ」として誰もが選べるようになった景色や技法がある。
それ自体を否定したいわけじゃない。
でも、そうした模倣の多くが「元ネタを知らない人」からだけ評価されて、「知ってる人」から見たら、ただの焼き直しに映ってしまうこともある。
しかも多くは、表面的なコピーにとどまっている。
その差を生んでいるのは、きっと“何を真似たか”ではなく、“どこまで感じたか”だと思う。
模倣の対象が、技術や機材やロケーションだけで終わっているのか。
それとも、その奥にある“意図”や“世界観”、そして“感情”まで読み取ろうとしたのか。
「すごいね」と言われるのは簡単だ。
でも、「なぜだか心が動いた」と言ってもらえるには、
誰かのあとをなぞるだけでは、きっと足りない。
模倣のその先に、自分自身のまなざしや持ち味、技術を持ち込んで、
まだ誰も見たことのない写真や価値に出会いにいけたとき、
その一枚は“自分の作品”になる。
上手い写真、というより、自分の写真。
そんな一枚を、目指して撮っていきたい。


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